川のくらし 後編
こちらは後編なので、前編を読んでおられない
方は、前編から読む事をオススメします。
それでは後編まいります。
うかいミュージアムではなんと鵜匠さんによる、
鵜飼の実演がおこなわれていました。
ピントの合う位置が違うよカメラさん。
つい最近買ったカメラを使いこなせていない
めんぷでございます(涙)。
魚を全力で追いかけています。
魚とった!
写真ヘタ(涙)
写真を見ていただくと、魚の胴体を押さえて
いるのがおわかりに、なりませんよね . . . 。
あの埴輪のようだと言いたかったのですが、
私の写真を撮る能力では無理でした。
精進します。
ところは変わりまして、川原町。
古い建物が美しいですね。
古民家カフェとかが建ち並んでいるこの地域。
昔は、
でした。
紙(うちわなど和紙を使った工芸品なども含む)
を扱っている店が多いのにも、こういった背景
があります。
材木を扱うお店も残っていますねー。
さすが川湊。
前編では、堤防の中を歩いてきた話をしましたが、
近くです。
普通、こんなに川の近くに人が密集している
ことはありません。
なぜ長良川では、危険な場所に人がたくさん
住んでいるのでしょうか。
それは、長良川が豊かかつ便利な川だから。
かつては大量の魚たちが泳いでいた長良川。
その魚たちをとる鵜匠たちは、川を常に見て
いなければならないため、全員堤防の中に住んで
います。
うかいあるきのガイドさんによると、この
堤防の中に住んでいるのは、川関係の
仕事に従事している方が多いそうです。
また、この堤防の中には、水防団という
組織があり、いざとなったら手動の陸閘を
閉めに行ったりするんですね。
また、鵜匠たちが住む鵜飼屋の対岸、川原町
は巨大な川湊。
この湊では、かつて清流長良川の水で作られた
高級な和紙や木材などが運ばれていました。
ずっと下流に進むと、太平洋に出るので、
全国どこへでも行くことができます。
くらしを規定しているですね。
と適当なまとめをしてみましたが、こんなもの
が指導教官に見られたら . . . 。
恐ろしいですね。切腹ものです。
ただ、長良川が周辺のくらしを規定している
というのはまごうことなき事実やと思います。
ちなみにですが、ガイドさんによると、この長良川、
伏流水が浜名湖5個分もあるそうです。
それだけ水が豊富なので、夏になってプールの水が
張れないということがないそうですよ。
また、この地域の人は長良川の水を使用している
わけですが、水が美味しいからペットボトルの水
なんて買わん、とのことでした。
羨ましー。
この先は、おまけ
「御鮨街道をあるく」です。
まずは、御鮨街道の説明から。
御鮨街道の「御鮨」はアユの熟鮓(なれずし)のことを
指します。
岐阜の鵜飼は尾張徳川家の保護を受けていたので、
代わりに、アユ鮓を献上する義務がありました。
この御鮨を運ぶ、岐阜から東海道に至る道が
御鮨街道と呼ばれています。
この御鮨街道、起点からJR岐阜駅のあたりまで
整備されていたので、歩いてみました。
街道は脱色アスファルトになっています。
脱色アスファルトは、その地域の石を
使うことで、その土地のアースカラーを
だすことができるってどこかで聞いたなー。
道は拡幅されているので、往時を忍ばせる
ようなものは、ほとんどありません。
血眼になりながら、古そうなものを探します。
立派なお宅。
そして、
唯一街道っぽいもの。石灯籠。
以上(涙)
後は、新しい家やお店しかなく、そこが御鮨街道
であった名残のようなものはありませんでした。
ショック . . . 。
いや、もっと賢ければなにか気づきがあったの
かもしれない。私の目が節穴なだけなのかな。
説明の看板が2種類あったので、載せておきますね。
「御鮨街道を歩く」は以上です。
あっけない . . . 。
次回は、いつ出かけられるかなー。
なかなか予定が詰まっているので、しばらく
止まるかもしれないですが、次回も懲りずに
おつきあいいただければ幸いです。
それでは、また!